基本情報
| 住所 | 埼玉県児玉郡上里町金久保701 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス | JR高崎線神保原 徒歩22分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 明応元年(1492) |
| 築城者 | 大畠昌広 |
| 歴代城主 | 大畠昌広 畑時能? |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 土塁・空堀 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | 天正10年(1582) |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 明応元年(1492)に大畠昌広が築いたが、大畠氏は大永4年(1524)に3代で滅んだ。 陽雲寺の境内には鎌倉時代末期に新田義貞に仕え、四天王の一人に数えられた畑時能の供養塔がある。 時能は金窪城を守ったとされるが、実際のところは時能の居城ではないかと思う。 時能の将才は子々孫々に伝わったようで、太平洋戦争では時能の末裔が陸軍元帥となった。 |
| お城情報 | ほとんど破壊されてしまった金窪城を見たあとは金窪南城へ向かった。 金窪城と比較すると遺構を残しているが折のついた土塁と空堀は訪問する少し前に改変されてしまったようで残念だった。 それでもこれだけ残っていれば素直に喜べるというものだった。 前述したように土塁は改変されて堀も埋められていたが、一部は城館らしい立派な遺構を残していた。 畑時能は秩父の長瀞出身の武士とされているが、飯能市の畑という土地の出身という説もある。 義貞に従い越前へ転戦して斯波氏との戦いで受けた矢の傷がもとで死んだ。 故郷でもない金窪に供養塔があるのは不思議なものであり、やはりここが彼の居城ではなかったかと思う。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/10/06 02:26:36 |





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