基本情報
| 住所 | 埼玉県比企郡ときがわ町大野 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス | |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 永禄年間(1558~69) |
| 築城者 | 大野弾正 |
| 歴代城主 | 大野弾正 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 郭・石積・土塁・水堀 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 橋倉城は松山城主上田氏に仕えた大野弾正の居城と伝わり、秩父へ通じる高篠峠と白石峠を抑える役割を持っていたと思われる。 弾正は上杉氏に属して永禄年間(1558~69)に秩父の薄村で武田軍と交戦し討死したという伝承が残っている。 上田朝直は北条氏の重臣だったが、関東へ攻め入った上杉謙信に呼応した時期があった。 このときに太田資正が守る松山城を北条氏康と武田信玄の連合軍が攻撃しているが、弾正が討死したのはそのときのことだろう。 大野弾正は本姓は森田氏だったようで、今も子孫は森田氏を名乗り弾正の血筋を伝えている。 |
| お城情報 | 比企郡の城館はほとんど廻り尽くしていたが、橋倉城だけはあまりにも遠すぎて未訪問だった。 とんでもない山奥にありバスの本数が少なく乗り継ぎが必要となるしバス停からも相当の距離を歩かねばならない。西武線沿線から行けないか計算してみたが、西吾野駅から徒歩で往復8時間かかる計算となりあきらめた。 埼玉県に住む自分が県内の城を訪ねて日帰りで戻れない危険がある場所である。道が明確なのかもわからないし、野生動物と遭遇する可能性も高い。そこまでして訪れる価値もないだろうと橋倉城のことは半ば忘れていたが、そんなときに友人と城館探訪をすることになり、未訪問の橋倉城を訪ねることができたのはとてもありがたかった。 午前10時前にときがわ町の物産館で集合し橋倉城へ向かった。大野集落は比企郡の最果てであり山の向こうは秩父である。 曲がりくねった林道を登り詰めるといきなり視界が広がり、見上げるとパラグライダーが優雅に空を舞っていた。 これを見て念願の橋倉城へ着いたことを実感した。埼玉の古城址に描かれた概念図と同じ構図が目の前にはあった。 城と断定できるような遺構は少ないが、長者平の先端に土塁があり湧水池もある。東側に浅い谷が入り込み半円状の平場には石積みが見られた。 城の遺構とは思えないが人が起居した証しにはなる。とにかくもこの日は橋倉城へ訪れた達成感で胸いっぱいだった。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】影武者 【 最終 更新日時】2025/11/01 02:15:30 |





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