基本情報
| 住所 | 埼玉県秩父市荒川久那 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス | 秩父本線影森 徒歩13分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 戦国時代 |
| 築城者 | 大胡氏? |
| 歴代城主 | 大胡氏? 大野氏? |
| 代表紋 |
未登録
|
| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 郭・石積・堀切 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 室山城は標高705メートルを誇る峻険な山城である。 新編武蔵風土記稿によれば戦国時代に大胡平八郎が拠ったとされる。上州を追われた大胡氏は北条氏に仕えて武蔵牛込城を与えられている。 大胡平八郎もおそらくその一族だろうと思われるが、どういった経緯で秩父に聳える室山城を居城としたのかは不明である。 一方で秩父誌は同じく北条氏に仕えた大野大八郎の居城と伝える。 秩父風土記では大胡大八郎とする記述があり、混同されて伝わっているのは明白で、鉢形城に出仕した大野氏の居城ではないかと自分は解釈している。 秩父には今も鉢形城の北条氏に仕えた大野氏の末裔と思われる人々が多く暮らしていることもそれを裏付けるのではないだろうか。 しかし室山城は居城とするにはあまりにも峻険な山であり、有事の際に兵を出すにも相当な時間を要する山城であることから、実際にはもっと古い時代の山城であり、戦国時代は烽火台程度の役割を果たしていたのではないかと思う。 |
| お城情報 | 浦山口駅の南にそびえる大きな山が室山城である。旧荒川村の城跡を訪れるときには嫌でも目に入るこの山に登ってみようと思い、浦山口駅から浦山ダム沿いに歩いてみたことがあったが、いきなりの急斜面となり登り始めてすぐにあきらめた。 友人がこの城跡に挑み見事に踏破しているが、後日談を聞くとやはり相当な苦労があるようで、それでいて遺構はその苦労にとても見合わないという。図面を見ても食指が動かないというか、自分の中では実際に見てみたいとは思わない山城であった。 無謀な単独での挑戦の挫折から14年が過ぎて、友人からの誘いで室山城へ挑むこととなった。最初の急登でいきなり腱を痛めてしまい、ずいぶんと遅れを取ってしまったが、何とか1時間20分ほどで山頂へ到達することができた。 県道73号線沿いのフェンスが途切れて階段のある場所から登ったが、最初の登りがいちばんきつく、その後も平坦な場所はいくつかあるものの、ほとんどが急斜面を這いつくばって登ることの連続だった。途中で2箇所ほどきれいな平坦が出されている平場があるが、小屋掛けをするとするならここ以外には見当たらない。どちらもせいぜい20人ほどが起居できるような広さではある。 崩れやすい足場に足を取られつつ岩場を登ると、その後はこれまでは違って多少は傾斜が緩やかとなった。道中で水分補給をしながら息も絶え絶えで登って行くとようやく腰曲輪が見えた。はっきりと二段の平場が見えたときの感激と安堵感はこの上ないものだった。 イメージとは異なり曲輪の整形はとても美しい。同じ秩父の塩沢城のような雑然とした造りを想像していたが、主郭にしても綺麗に平らに均されており、斜面は切岸加工を施したようにも見える。わずかだが巨岩を用いた石積も見られるが、石の産出は容易だったようで、よく探すと至るところに石積の痕跡があった。 北西尾根には腰曲輪が3つ並び壮観な眺めだった。図面では南尾根に堀切の存在が記されている。人によっては堀切はないと断言する人もいるが、尾根を下って平坦な尾根となるあたりにその痕跡を見ることができる。その先は巨岩が転がる異様な風景が続くが、城域はこの堀切までと考えて良い。 聞くと見るとではまったく違い、室山城は図面で示されるよりもずっと整った山城だった。比高差は450メートル前後あって往復はとても骨が折れるし、ざっくりと尾根を断ち切る堀切もなければ重厚な土塁も見られないが、天険の要害を活用したその縄張りは見事なものだった。 自分の中では五指に数えられるぐらいきつい山城であり、もう二度と登りたいとは思わないが、これだけの達成感が得られたのは群馬県の鼠喰城か山梨県の御坂城以来のことだったと思う。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/10/18 06:53:05 |





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