基本情報
| 住所 | 神奈川県小田原市城山2丁目14-32 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 |
東海道 相模 |
| アクセス | 小田急小田原線小田原 徒歩7分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 鎌倉時代 |
| 築城者 | 大森頼顕 |
| 歴代城主 | 大森頼顕 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 花岳城の跡地に建つ城源寺の寺伝に拠れば、大森信濃守頼顕が応永24年(1417)に花岳城を築き、同時に城内に城源寺を開いたという。 新編相模風土記では城源寺の開山を正中2年(1325)としており、応永24年(1417)は大森頼春が小田原城を築いた年であり、頼顕は頼春の曾祖父にあたるので、寺伝はどこかで誤伝が混じってしまっているのだろう。新編相模風土記が伝えるように鎌倉時代の築城であれば辻褄が合う。 花岳城が鎌倉時代の築城とすると、後世の小田原城のような平山城ではなく、方形居館を基にした館城であったと思われる。 平安時代末期の小田原は坂東平氏の出身である土肥実平の嫡男小早川遠平の本拠地であった。 遠平は源頼朝の挙兵に一族挙げて参戦し、戦後は安芸沼田荘の地頭に任命されたが、沼田へは養子に迎えた景平を赴任させ、嫡男の維平には宗家である土肥氏を継がせた。 建保元年(1213)の和田合戦で土肥一族は和田義盛に加担し大きく勢力を削がれたが、遠平は参戦しておらず所領を安堵された。 遠平は後に沼田へ移ったようで墓所も安芸にあるので、小早川氏が去ったあとに大森頼顕がその居館に移住した可能性は十分に考えられると思う。 |
| お城情報 | 12年ぶりに小田原城へ訪れた。そのときは新たに開放された八幡山古郭東曲輪を訪ねただけなので、小田原城をじっくり歩いたのは実に19年ぶりのこととなった。近世の本丸周辺も時間をかけて歩いたが、今回の主目的は壮大な総構を歩くことだった。 北条氏時代の小田原城は小田原市街を取り囲む丘陵を利用して展開しているので、山城を3つぐらい登るほどの労力を要する。苦労するだけあって見応えのある遺構の連続に思わず息を呑んだ。 さすがに疲れ果てて蓮上院の土塁や小田原の役で徳川家康が布陣した今井陣場などは、とてもではないが立ち寄る気力も失せてしまい、小田原城の前身とも考えられる花岳城へ立ち寄って帰路につくことにした。 城源寺は寺院らしからぬ瀟洒な建物だった。墓地なども見られない一風変わった寺院である。その門前が小さな公園となっていて花岳城の石碑と、花岳城の由来が刻まれた城源寺の碑があった。 周辺よりやや低いような土地で城郭らしさをあまり感じないが、中世はここも小田原城の一部であったことには違いない。石碑の他にはこれといって花岳城を偲ぶようなものはなかったが、幻の彼方にある小早川氏館の候補地と考えれば立ち寄った満足感はあった。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/09/19 16:49:21 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 1.0|
登城日:
2025年9月21日 14:26
(影武者さん) おすすめ度: ★ 城源寺とゆう名前のお寺があり、門前にそれっぽい庭がある | |||
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登城日:
2025年9月21日
(マリリさん) おすすめ度: ★ |





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