基本情報
| 住所 | 島根県雲南市大東町東阿用 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 山陰道 出雲 |
| アクセス | JR木次線出雲大東 徒歩34分 |
| 地図 | |
|
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。 | |
| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | |
| 築城者 | 桜井氏 |
| 歴代城主 | |
| 代表紋 |
未登録
|
| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | 山城 |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 築城年代は定かではないが桜井氏によって築かれたと云われる。 永正年間(1504〜1521年)頃、尼子経久は各地の国人・豪族を富田城へ招き寄せたが、阿用城主桜井宗的は出雲国守護京極氏への思いからその命令に従わず、伯耆国羽衣石城主南条宗勝らと通じて軍備を整えた。 経久は嫡子尼子政久を大将として阿用城を攻めさせた。しかし、阿用城は堅城で思うように攻める事ができず、二重三重に取り巻いて兵糧攻めの長期戦となると、笛の名手でもあった政久は陣中において笛を吹いて時を過ごしていた。 これを知った桜井宗的は夜陰に紛れて城を抜け出し、その笛の音を標的として弓を放つと矢は政久の喉を貫いて政久は没した。 経久は政久の死を知ると激しく怒り、尼子国久を大将とし尼子興久・亀井安綱・宇山飛騨守・牛尾遠江守・横道・森脇・川副らを付けて阿用城を攻めたて、宗的を討ち取り城を落とした。 |
| お城情報 | 城は磨石山の山頂にあり、主郭付近は南北に曲輪が並び、そこから西の尾根にも曲輪がある。 笹が生い茂っている部分も多くあまり明瞭ではないが、曲輪には低土塁が部分的に残っている。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/09/04 05:56:20 |








未登録










日別アクセスランキング


新着・更新情報







お城ニュース

