基本情報
| 住所 | 埼玉県久喜市鷲宮 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 東海道 武蔵 |
| アクセス | 東武伊勢崎線鷲宮 徒歩9分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 鎌倉時代 |
| 築城者 | 細萱氏 |
| 歴代城主 | 細萱氏 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 土塁・空堀・水堀 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | 永禄4年(1561) |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 粟原城は鷲宮神社の神人細萱氏が鎌倉時代に築いた城とされる。
戦国時代に鷲宮神社の神職は大内氏が務め、古河公方の足利晴氏に属していたが、古河公方が北条氏の傀儡となると大内氏もそれに従った。 永禄4年(1561)に上杉謙信は関東に出陣し、幕下に参集した諸将を率いて北条氏の居城である小田原城を攻めたときに、大内氏の重臣細萱民部少輔光仲は80余名の家臣を率いて小田原城の加勢に赴いたが、謙信が小田原城の攻囲を解いて帰陣したときに、配下の木戸宮内少輔が粟原城を焼討ちにし、支城の花崎城を攻め落としたという。 粟原城の歴史については針谷氏の系図に拠るところが多く、その信憑性については必ずしも全幅の信頼は寄せられないようであり、針谷氏と細萱氏は同一なのではないかと思われる節がある。 針谷氏は粟原城が廃城となった後も鷲宮神社領の社領代官と名主を務め近世まで続く。 |
| お城情報 | 鷲宮神社は鎌倉時代から武蔵武士の尊崇を集めた神社であり、粟原城はその南西にあるが、城跡の大半は農地となっている。
鉢形城の歴史資料館に粟原城の図面が展示してあるが、写真撮影は禁止のため記録していない。 粟原城を訪ねたのは遠い昔のことなので記憶も曖昧だが、目に見えるような遺構はなかったように思う。実際にこの城へ訪れた人たちの記録を見ても、それは同じようで遺構はすでに失われているようである。そのときは空堀と思われる場所を撮影したが、堀というよりも曲輪跡の段差であったかもしれない。 17年が過ぎて再び粟原城を訪れる機会を得た。航空写真で見る限り、自分が訪ねたときと土地利用は大差がないように見えた。もう一度じっくりと遺構の有無を確認したかったのと、前回はさっと通り過ぎるだけで終わった鷲宮神社を散策してみたかった。 早朝の鷲宮神社はちょうど地元のラジオ体操が終わったばかりで、年老いた人たちが帰宅するところだった。眩しい朝日に照らされる鷲宮神社の本殿は神々しく光り輝き、見るだけでも霊験あらたかに感じられた。 鎮守の森を廻る散策路があるので歩いてみたが、土塁と思える地形があったり、外周には水堀が廻らされるなど、鷲宮神社と粟原城は別城一郭のような関係にあったのだろう。 青毛堀川は近代に流路が付け替えられているようだが、旧流路は屈曲せず粟原城の南側を流れていたものと想像したい。 肝心の粟原城であるが、こちらも以前に訪ねたときとほとんど変わらない光景だった。 廃屋になった家の敷地が鷲宮町史に掲載されている粟原城の堀に相当するようだが、いくら廃屋でも勝手に立ち入るわけにもいかず、そこは遠目に眺めるだけにとどめた。 北東の竹藪はまだ青々と生い茂り目視では遺構の確認が難しかったが、畑との間に段差があり土塁と堀の存在を感じさせる。一周して主郭とされる場所へ入ると小さな祠と背の高い棕櫚の木が青空を背景にして映えていた。 結局は遺構を見つけることはできなかったが、前述のように鷲宮神社と併せて歩くといろいろなものが見えてくる城だった。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】dougen 【 最終 更新日時】2025/12/02 15:53:43 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 1.0|
登城日:
2019年7月20日 15:52
(dougenさん) おすすめ度: ★ 鷲宮神社の西側が粟原城址となります。 農地や宅地となっており、遺構は残っていませんが、鷲宮神社側には水濠や空堀、土塁など遺構と思われるものが確認できます。 https://dougen2013.livedoor.blog/preview/edit/12840fa3a9f3ab40daa5e71ff6064242 |








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