基本情報
| 住所 | 埼玉県児玉郡上里町勅使河原1833-1 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 東海道 武蔵 |
| アクセス | JR高崎線新町 徒歩23分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 平安時代末期 |
| 築城者 | 勅使河原直時 |
| 歴代城主 | 勅使河原直時 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 土塁・空堀 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 勅使河原氏は丹党出身で秩父丹五基房の子丹次郎直時を祖とする。 源頼朝が武家政権を開くときからおよそ百年ほど前のことである。 直時の孫権三郎有直と四郎有則が頼朝の挙兵に参戦し、活躍している様子が吾妻鏡などに描かれている。 南北朝時代の勅使河原氏は南朝に味方しているが、これは新田義貞と所領が近いことから、その成り行きで南朝に身を投じたのだろうと思う。 足利尊氏が室町幕府を開き、関東地方が北朝に味方した勢力で固められたため、勅使河原氏は所領を失ったという。 天正10年(1582)に織田信長が横死した混乱に乗じ、北条氏直が滝川一益と神流川を挟んで戦ったが、そのときに北条氏が館跡も再利用しており、戦勝に気を良くした北条氏直がこの地を勝場と名づけたという。 |
| お城情報 | 高崎線の線路脇にある大光寺の門前には勅使河原氏館跡の立派な石碑が建っている。 境内はひっそりとして自分と友人の他には誰もいなかった。 境内の奥に土塁と空堀があるが、他は特に印象に残るものはなかった思う。羽化したばかりの鮮やかなアシナガバチが石塔にとまっていたことを妙に覚えている。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/10/06 02:06:06 |








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