基本情報
| 住所 | 京都府京都市上京区武衛陣町 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 畿内 山城 |
| アクセス | 京都市烏丸線丸太町 徒歩4分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 永禄3年(1560年) |
| 築城者 | 足利義輝 |
| 歴代城主 | 足利義輝 足利義昭 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | 平城 |
| 廃城年 | 天正4年(1576年) |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 戦国時代から安土桃山時代に京都府京都市上京区武衛陣町に存在した室町幕府将軍の御所・城。 徳川氏の二条城と区別して、旧二条城、二条古城とも呼ばれる。現在は旧二条城跡として知られている。また、創建当時は二条城とは呼ばれておらず、この呼称は江戸時代になって用いられたものである。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様の御城」「二条武衛陣の御構」などと呼ばれていた。 足利義輝と足利義昭の二条御所が知られており、どちらも同じ場所にあった。義昭の御所は義輝の御所の跡地を拡大し、普請されたものである。 義輝の築城した二条御所は義輝が殺害された永禄の変で焼失し、織田信長によって築城された義昭の二条御所も、義昭と信長が敵対した二条御所の戦いの後、主を失って破却された。 また、かつて二条御所は誠仁親王の御所と同じ場所にあったとされてきたが、現在は違う場所にあったことが証明されており、そちらは二条新御所と呼ばれている。 天正4年(1576年)9月以降、信長は将軍御所であった二条御所の解体を進めた。同年2月に義昭が毛利輝元を頼り、備後の鞆に動座したことによって、信長は義昭との和解がもはや不可能になったと判断したため、解体に取り掛かったと考えられる。同月、信長は門や建物を取り壊し、安土に移築した。他方、石垣は諸人に略奪させており、不特定多数の人間が持ち帰ることが許された。 |
| お城情報 | 二条御所に残った天主や門は解体され、安土へ運ばれ、築城中の安土城に転用された。信長が3ヶ月の間、奉行として普請していた二条御所は現在、何一つ残されていない。 昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで、京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条御所の石垣および2重の堀の跡が確認された。 その際に発掘された石垣にあった石仏が、京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現元離宮二条城二の丸西門近辺にある御手洗近くに復元されて遺っている。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/08/28 06:35:02 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 1.0
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登城日:
2025年10月12日
(ドライブマンさん) おすすめ度: | ||
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登城日:
2023年2月27日
(熱気バサラさん) おすすめ度: ★ |








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