基本情報
| 住所 | 神奈川県伊勢原市上粕屋1418 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 東海道 相模 |
| アクセス | 小田急小田原線伊勢原 徒歩37分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 永享10年(1438年)頃? |
| 築城者 | 上杉持朝? |
| 歴代城主 | 上杉定正 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | 平山城 |
| 廃城年 | 15世紀末~16世紀初頭? |
| 指定文化財 | 伊勢原市指定史跡「上杉館跡」 |
| 歴史・沿革 | 神奈川県伊勢原市にあった中世居館。相模国守護・扇谷上杉氏が本拠とし、「上杉館」とも称される。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が暗殺された地として知られる。1969年(昭和44年)2月27日に「上杉館跡」の名称で伊勢原市指定史跡に指定されている。
明確な築城時期は不明だが、永享10年(1438年)に勃発した永享の乱に際して、扇谷上杉氏当主・上杉持朝が鎌倉・扇谷からここに移り館(守護所)を築いたのが始まりと言われる[2]。宝徳2年(1450年)4月、山内上杉氏家宰・長尾景仲と扇谷上杉氏家宰・太田資清が江の島合戦で鎌倉公方方に敗れた際には、糟屋へと撤退している。なおこの時、景仲・資清は糟屋館北部の七沢山に要害(七沢城)を築いている。 江の島合戦の5年後・享徳3年(1455年)に享徳の乱が勃発すると、扇谷上杉氏も鎌倉公方・足利成氏との抗争のために前線の北武蔵へ拠点を移す必要が生じ、長禄元年(1457年)には河越城(埼玉県川越市)を築いて拠点を移した。 また、最前線の五十子陣(埼玉県本庄市)にも当主が長期滞在するようになり、持朝から家督を継いだ上杉政真も五十子在陣中に戦死している。しかし、この間も糟屋館は相模国における拠点として維持され続けた。文明17年(1485年)には、詩僧・万里集九が「相陽糟屋の府第」に宿泊したことを『梅花無尽蔵』に記している。 |
| お城情報 | 糟屋館は現在の神奈川県伊勢原市にあったとされるが、正確な場所は不明である。上粕屋(上糟屋)の御伊勢森(現・産業能率大学湘南キャンパス)周辺とする説と、下糟屋の丸山(現・丸山城址公園)とする説の2説があり、近年では後者すなわち丸山城=糟屋館とする説が有力である。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】dougen 【 最終 更新日時】2025/11/10 10:01:17 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 1.0|
登城日:
2011年11月26日 10:00
(dougenさん) おすすめ度: ★ 小田急伊勢原駅からバスで20分ぐらいのところにある産業能率大学が糟谷館址となります。 糟谷館は、太田道灌が暗殺された地であり、近くの洞昌院に大田道灌の墓があります。 遺構らしいものは残っていませんが、太田道灌の最期を偲ぶ史跡が残る場所ですが、名将太田道灌の最期となった糟谷館の遺構が残っていないのは残念なことです。 https://dougen2013.livedoor.blog/archives/23542992.html |








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