基本情報
| 住所 | 福井県あわら市吉崎 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 北陸道 越前 |
| アクセス | ハピラインふくい線牛ノ谷 徒歩52分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 文明3年(1471年) |
| 築城者 | 本願寺第8代法主・蓮如 |
| 歴代城主 | |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | 山城 |
| 廃城年 | 1575年 |
| 指定文化財 | 国指定史跡「吉崎御坊跡」 |
| 歴史・沿革 | 本願寺8代法主の蓮如は、京都で一向宗の布教を進めていましたが、勢力拡大を恐れた比叡山延暦寺の攻撃を受け、京都を追われ、文明3年(1471年)7月、越前と吉崎の地(御山)にたどり着き、三方が湖に囲まれた要害の地・吉崎に坊舎を築きました。 吉崎には全国から一気に門徒が集まり、わずか数年で、山の上や麓に数万人が暮らす巨大な宗教都市(寺内町)が形成されました。越前の守護である朝倉氏や、加賀の守護である富樫氏などの戦国大名、さらに既存の仏教勢力から激しく警戒されることになり、外敵の襲撃に備え、土塁を盛り、門を構え、吉崎御坊を「陣城(要塞)」へと変貌させていきました。 意に反して過激化した門徒達に絶望した蓮如は、文明7年(1475年)8月、吉崎を脱出し河内へと向かい、その後も、吉崎は北陸一向一揆の重要な軍事・宗教拠点として残り続け、1488年には、ついに門徒たちが加賀守護の富樫政親を倒し「百姓の持ちたる国」を樹立します。 勢いに乗った一揆軍は越前へ攻め込みますが、朝倉宗滴(そうてき)の反撃に遭い大敗(九頭竜川の戦い)。そのまま吉崎御坊まで攻め込まれ、要塞としての吉崎は徹底的に破壊されました。 その後も石山本願寺の動乱に連動して反乱を繰り返しましたが、天正3年(1575年)、織田信長により吉崎の御坊と町は完全に壊滅し、廃城・廃寺となりました |
| お城情報 | 吉崎御坊は、南北約130m、東西約150mの「御山(おやま)」の山上を「主郭(本丸)」とした放射状に展開する一拠点型の城郭寺院です。 主郭を取り囲む斜面は、人工的に削り落とされて急峻な崖(切岸)に加工され、水堀(北潟湖)を渡って強襲してきた敵が、山上へ這い上がれない壁となっています。 山上へ繋がるルートは「東大門口」「北大門口」「馬場大路口」の3本の細い登城路に限定され、敵の侵入を上から迎え撃つ縄張りとなっています。 山上の広大な削平地(主郭)から、南側(麓)に向けて3段ほどのひな壇状の平坦地(連段曲輪・腰曲輪)が配置されています。ここに門徒の多屋(宿坊)を並べることで、段階的な防衛壁として機能させました。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】千 百万 【 最終 更新日時】2026/06/23 16:10:06 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 4.0|
登城日:
2026年6月19日
(千 百万さん) おすすめ度: ★★★★ 道の駅「蓮如の里あわら」が併設され訪れやすいです。道の駅は賑わっていたが、御坊跡へは少し歩くので落ち着いた雰囲気でした。 |








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