鳥羽山城 登城記録 (本多百助さん)
静岡県の中世城館跡より
鳥羽山城が世間から「幻の城」であると云われるのは、戦国期の本格的城郭であり、且つ縄張も二俣城以上に大規模な構造を持ちながら明確な城史に欠けるからである。
『浜松御在城記』等には、天正3年(1575)に徳川家康が二俣城を奪回するために構築した付城群(鳥羽山城、毘沙門堂砦、蜷原(になはら)砦、和田ヶ島砦)の一つで、特に鳥羽山には本陣を備えた、と書きあげているけれども、先年(昭和49,50年)の本丸発掘の際の出土品等から考察する限り、城の創築年代は少なくとも室町中期以前に遡りうる可能性がある。従って、天正3年の二俣城奪回戦の際には、城をここへ新規に構築したのではなく、以前からあった砦か城跡を修理拡張して、本陣と定め大久保忠世に守らせたものと解する。
ところで、二俣城はその後6ヶ月に亘る徳川方の兵糧攻めで、結局は年末になって落城(降伏開城)するが、その際用済みとなった鳥羽山城が廃城となった形跡がない。むしろ、二俣城の出丸として維持されたのみならず、一層改修を加えられて枡形門や庭園まで付設され、本格的な戦国城郭に発展した跡が窺える。しかし、天正18年(1590)には、徳川家康の関東移封にともない、二俣城も廃されて大久保忠世(最後の二俣城主)が小田原城に移るので、その時点で鳥羽山城も廃城の運命を辿ったものと思われる。
鳥羽山城は、二俣城のある蜷原台地と二俣川を挟んで(二俣川の旧流路は、鳥羽山の直下を西へ流れ、字川口で天竜川と合流していた)対峙した字鳥羽山の山頂(標高108m)に構築された連郭式山城で、大規模な城郭である。
縄張は、鳥羽山最高所の本丸を中心に前後左右に二の丸、三の丸、蔵敷、井戸曲輪、北の丸、笹曲輪、家老屋敷その他の腰曲輪、帯曲輪を配した上、東方に連なる尾根上には更に有名無名の曲輪を設けて搦手の備えとし、且つ要所要所を深い堀切で切断する等全山要塞といった構えである。ことに本丸と二の丸は、虎口と防塁を堅固な野面積みの石垣で構築している点本格的であり、枡形門や暗渠排水溝、更には庭園遺構の存在等と合わせても鳥羽山城の当地方における中世城郭の中で占める位置は極めて特異な所にあるといえよう。
なお、鳥羽山城は、昭和49年と50年に本丸の一部が発掘調査されて、建物跡、石列、暗渠、井戸、庭石等の遺構と共に、北宋銭や古瀬戸その他の中世陶器片が多数検出されたが、いずれも鳥羽山城が室町時代から戦国時代にかけて、かなり長期間に亘り、機能していたことを物語る出土品ばかりであった。
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