馬伏塚城 登城記録 (本多百助さん)
写真は
①諏訪神社の鳥居と馬伏塚城跡の石碑
②土塁
③袋井市郷土資料館の復元模型
「静岡県の中世城館跡」より
初代城主は小笠原信濃守長高と伝えられます。
長高は天文13年(1544)に没するまで、今川氏親のもと遠江国山名郡浅羽荘を領しました。長高の子・春義は福島上総介正成に代わり高天神城主となると、馬伏塚城主も兼ねました。その子・氏清も今川氏に属し、馬伏塚・高天神城主を務めましたが、永禄11年(1568)今川氏に背き、徳川家康に転仕、翌12年に没しました。氏清は馬伏塚天岳寺に葬られましたが、後に了教寺に改葬されました。
武田氏の攻撃で高天神城が落城すると、天正2年(1574)馬伏塚城を修復して武田氏に備えました。当時海岸線は今より内陸にあり、高天神に対して重要な城であったと考えられます。家康は天正8年高力左衛門清長を城主とするが、天正6年横須賀城が築城されると馬伏塚城の機能は
失われて行き、清長が駿河、田中城に移ると廃城になりました。
城跡は小笠山丘陵の支陵が何本も突出するうちの1本に位置します。今城と呼ばれる本城と低湿地を挟んで約80m南にある出城からなる。従来この出城を馬伏塚城と称してきたが、むしろ今城が本城と考えられます。
本城、出城ともに宅地化が進み、城跡は姿を大きく変えていますが、今城にはシロヤシキ(個人宅)と呼ばれる裏庭には幅5m、高さ1〜3mの土塁が残っています。土塁北側は堀切となっています。この堀切から舌状丘陵の先端まで約150m、丘陵幅は約45mで城跡は南北に細長い。土塁以外遺構を残していないが、堀切から約90m南方の地点になだらかな丘陵には不自然な段差が見られ、2〜3の曲輪を南北に連ねた構造と推定されます。
出城は東西約140m、南北約80m、城跡中央を私道により東西に分断され、北方、西方も町道に破壊されています。城跡北辺には土塁が残り、諏訪神社の北、東には堀切状の遺構がありますが、北郭、東郭は削平されて茶畑となっています。出城北側に井戸、その傍に五輪塔・宝筺印塔が数基あります。
おすすめ度: ★★
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