城之崎城 登城記録 (本多百助さん)
本丸が野球場として活用されています。
土塁の一部が残っていますが、野球場と一体化していて、遺構としてわかりにくくなっています。駐車場から見える土塁はかなりの高さがあることがわかります。高い土塁で囲まれた野球場1つ分の広さの本丸があったと想像できます。
〈静岡県の中世城館跡より要約〉
別名 城山、見付古城
『遠江国風土記伝』には寿永・建久年間(1182−1190)に安田三郎義定遠江守に任ぜられこれに住むとあるが、定かでない。寛正・文明年間(1460−1486)の斯波・今川氏の抗争に際し一時的に城塁の機能を有したことが推測される。永禄12年(1569)正月、徳川家康は山本帯刀成氏(成行)の縄張で見付宿の東方山続きの旧塁を崩し、城・屋敷・御在所・堀川などの造営、城之崎の城塁を改修して新城を築いた。同5月、掛川城の今川氏真攻略後、築城未完のまま元亀元年(1570)6月浜松(引馬城)へ移っている。
磐田原台地南、舌状の城之崎丘陵中央、標高20mの位置にある。本丸跡(120m✕120m)は野球場となり、土塁・空堀が残存するが、改変が著しい。本丸北西部のL字状土塁は長さ東西70m、南北65m、幅15-20m、高さ5-10m。土塁内側に未完の井戸跡があったという。この土塁より東へ長さ60m、幅10m、高さ2mの土塁は改変され、本丸西の球場入口より南へ長さ115m、幅10-20m、高さ9m更に東へ直角に折れて長さ150m、幅10-20m、高さ7mの土塁が本丸東南隅に至る。本丸東部の土塁はほぼ消滅。空堀は本丸北東より南端へ深さ5-10m、幅10-15m、長さ180m。北と西の土塁中央に出入口があり、虎口跡と推定される。
掛川城攻略の一拠点として築かれた戦国末期の城郭跡といえる。
家康の浜松移転は用水不足と後の対武田戦に信長の後詰めに関連し天竜川を背にする不利などが理由とされる。
おすすめ度: ★
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