賤機山城 登城記録 (本多百助さん)
【静岡県の中世城館跡より】
創建年代については明らかでなく、城将名も伝わらず、僅かに『今川分限帳』に「駿州賤波多山城主、石橋兵部少輔」の名が見えるだけである。
しかしながら、今川氏駿府館の防衛の中心的存在であり、詰めの城と考えられる事から、今川範政駿府入府の応永18年(1411)前後、あるいはそれ以前こ今川氏初代・範国が建武年間(1334-38)南北朝安倍城に対する押さえとして築かれた可能性もあり、地名の残存が東側大岩よりも西側に多く見受けられることは初期において大手筋が安倍城口に開かれていたことを示唆するのではなかろうか。
その後、永禄11年(1568)12月武田氏駿河侵攻に際して駿府は焼土と化し、『甲陽軍鑑』永禄,11年12月13日の条に「信玄御旗本は駿府籠鼻に陣取り」と見えて、籠鼻が賤機山城もしくはその出城と考えられることからこの日に落城し、武田氏の属城に帰したと見られ、天正,10年(1582)3月に至って、徳川家康駿府入城に伴う戦いによって当城も再び落城し、以後廃城になったと考えられる。これは『臨済寺文書』天正10年8月3日、徳川家康宛四辻公遠書状の臨済寺再興に関する文書によって窺い知ることあできる。
賤機山城は静岡平野に突き出す浅間山の北、賤機山標高172.9mの尾根式山城で、平野部から死角となる安倍川上流に対する押さえの要素を持ち、静岡平野を一望に収める好適地に立地している。
当城の曲輪は賤機山の南北の尾根上に配置されており、I からIIIの3つの主要曲輪からなっている。I の曲輪は当城の中央最高所に位置し、標高172mで南北70m、東西25mの規模を持ち、東側が窪状になって西側にあつく土塁がまかれており、北側に枡形の土塁で囲まれる穴倉状の遺構をもつなど複雑な構造をもっている。また中央部分には1段高い部分があって櫓台とも擬せられる。そしてこれより東側臨済寺方向に伸びる支尾根は東出丸ともいうべきもので若干の平場が認められる。
IIの曲輪はI の曲輪の南尾根に接続する曲輪で標高162.5m南北80m東西18m余りの細長い曲輪となっており、Iの曲輪側に段が設けられ、南側に土塁が認められる。この曲輪より西側に伸びる支尾根末端部がいわゆる籠鼻砦と見られ、西出丸と考えられる。III の曲輪はI の曲輪北尾根続きにある曲輪で数段の平場によって構成され、
尾根続きに1条の堀切によって尾根を切断している。これ以北は大岩大在家の天徳寺山上の光明地蔵と呼ばれる付近までいくつかの段状の平場が見られるがはっきりしない。
堀切は、この北尾根部分とI・ II 曲輪の間そして南側浅間山続きの稜線上に2条の堀切が認められ、西出丸境に当城最大の堀切が設けられている。東南麓直下に今川歴代の菩提寺・臨済寺がある。
おすすめ度: ★★★
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