狩野城 登城記録 (本多百助さん)
静岡県の中世城館跡 より
狩野氏は平安時代末期から近世初めまでの長い間
伊豆中央部一帯に強大な勢力を持っていた。一族は藤原維景を始祖とすると言われ、後に分かれた伊東、宇佐美、曽我、河津、工藤氏なども同族である。後に代々狩野(工藤)介と呼ばれる。茂光の頃には一族の加藤氏えお始め伊豆国の武士を従えて、大島の源為朝を討ったことが『保元物語』に見える。おそらくこの頃は伊豆国府の在庁官人を務めていたのではなかろうか。彼以降、一族は狩野谷を支配したと見られる。茂光、親光は治承4年(1180)の源頼朝の旗揚げに参加するが石橋山の戦いに敗れ、大庭・伊東氏に狩野城が攻撃されたと言う伝説も残されている。その後は執権北条氏を支える大きな力となったようである。
康安元年(1361)畠山国清が足利基氏にそむき、伊豆国に下った時には彼を支援していたが、降伏したと『太平記』にある。またそれ以降は上杉氏に従い伊豆国に侵攻した早雲に対抗したらしいが後にこれに従った。
後北条氏の『小田原所領役帳』には松山衆として狩野介豆州狩野日向郷等及び御馬廻衆に狩野大膳を記載する。
本柿木よ青羽根の境界に位置し、柿木川と狩野川に挟まれた標高180m、比高80mの城山の山頂が城跡である。尾根は西南から東北にに延び、それを山田川と北沢川が切り、独立丘状を呈する。遺構は西南部に集中し、空堀及び土塁で郭を構築する。特に二重の空堀は注目される。主郭と考えられる部分には堂が建ち、南に向かって大きく張り出す。東北部は階段状に平坦部が連続する。
北西の山裾の平坦部は本城、城ノ内と呼ばれ館跡の可能性が強い。またこの西方に柿城、松城、木戸、狩野城、古屋敷等の地名があり、ここにも城館跡が推定される。
おすすめ度: ★★★★
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