基本情報
| 住所 | 埼玉県児玉郡上里町金久保1587-1 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 東海道 武蔵 |
| アクセス | JR高崎線神保原 徒歩23分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 治承年間(1177~81) |
| 築城者 | 加治家季 |
| 歴代城主 | 加治家季 畑時能 斎藤氏 武田信俊 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 土塁 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | 元禄11年(1698) |
| 指定文化財 | 埼玉県指定史跡 |
| 歴史・沿革 | 金窪城は治承年間(1177~81)に丹党の加治家季が築いたという。 入間郡を地盤とする加治氏が上武国境に近いこの場所に城を築く理由がわからないが、加治氏は新田氏との繋がりがあったので一概に否定できない。 新田義貞が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた頃は家臣の畑時能が金窪城を居城としており、室町時代から戦国時代にかけては斎藤実盛の末裔を称する斎藤氏の居城となっていた。 天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で横死すると、厩橋城で関東経営を任されていた滝川一益を襲うべく北条氏直が大軍を率いて北武蔵へ進軍した。 斎藤定利は北条氏に味方したため一益の軍勢に攻められ、一族もろとも討死し金窪城も焼き払われた。 北条氏が滅ぶと徳川家康に仕えた武田信俊が金窪に陣屋を構えた。 |
| お城情報 | 金窪城は全国的な知名度は低いが、関東地方ではそれなりに名が知られている城で、上武国境の要衝にあり幾度か争奪戦が繰り広げられた歴戦の城である。 昭和10年に埼玉県の文化財指定を受けているが、その遺構はほとんど残っていない。 金窪城址公園は寂しい雰囲気で誰も遊んでいなかった。石碑の向こう側に土塁が残り案内板が設置されている。 他にも土塁が残る場所があるが、自分が訪れた後はさらに宅地化が進んでいると思われ、現状がどうなっているかはわからない。 ほんのわずかな時間をここで過ごしたあとは多少の遺構が残る金窪南城へ向かった。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/10/06 02:15:21 |








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