基本情報
| 住所 | 神奈川県秦野市西田原 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 東海道 相模 |
| アクセス | 小田急小田原線秦野 徒歩33分 |
| 地図 | |
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 戦国時代 |
| 築城者 | 大藤信基 |
| 歴代城主 | 大藤信基 大藤式部少輔秀信 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | 天正18年(1590) |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 田原城は北条氏綱に仕え相模国中郡の郡代に任じられた大藤信基の居城である。 信基は紀州根来の出身で根来金石斎とも称された武将で、新参者ながら足軽大将に抜擢され、軍事面と内政面のいずれもでその才能を認められた魅力的な経歴を持つ人物でもある。 子の大藤式部少輔秀信も北条氏の当主から信頼を受け、北条氏政から偏諱を与えられて政信と名乗った。元亀3年(1572)に政信は同盟していた武田信玄への援軍として遠州二俣城の攻撃に参戦し銃弾に当たり討死した。 嫡男も父と同じ政信と名乗り田原城主として中郡郡代を継いでいる。大藤長門守のときに豊臣秀吉による北条氏征伐があり、田原城は戦うことなく打ち捨てられ廃城になったと思われる。 |
| お城情報 | 北条氏の領内にある支城で本拠地の小田原城から最も近い場所にある田原城だが、その所在地は今もなお明確にはされておらず、東田原地区か西田原地区にあったのかすら解明されていない。 大藤氏は中郡郡代を務めた重臣といっても足軽大将なので、その居城も一門や譜代の重臣たちとは異なり屋敷程度の規模だったと考えられ、大規模な遺構を残すような技巧的な縄張りを持つ城ではなかったと思う。 田原城は西田原の堀ノ内と呼ばれる舌状台地先端部が有力な比定地となっている。台地裾には八幡神社があり、少し坂を上がると大藤氏の墓がある香雲寺が建っている。 台地上は放棄された農地の成れの果てのような草原が広がるだけで、地表面で観察できる遺構は見られないが、発掘調査では障子堀が検出されたそうなので、この一帯が田原城と断定して良いのかもしれない。 一方で東田原地区には源実朝の首塚が残る東田原中丸遺跡がある。ここもやはり所在地が不詳となっている波多野氏の居館跡としての可能性が高まっている場所であり、それを後世に大藤氏が居城とした可能性もまた大いにあり得ることだと思う。 東田原中丸遺跡から田原城推定地へ移動する途中に立ち寄った東田原神社には土塁が残り、ここもまた田原城の比定地としての可能性を残している。 実際に田原郷を歩き回った結果、個人的には東田原神社と山本海苔工場が建ち並ぶ御嶽地区の台地が城郭を築くのに相応しい地勢だと感じた。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/09/19 12:40:37 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 1.0|
登城日:
2025年10月18日 10:40
(影武者さん) おすすめ度: ★ 地図上では畑しかない。近くのお寺が森で一段高くなっているのでそこではないだろうか? | |||
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登城日:
2025年10月18日 10:38
(マリリさん) おすすめ度: おそらくここ?の写真のみ 道標、案内板、遺構とも分からず |








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