基本情報
| 住所 | 神奈川県秦野市曽屋5890-1 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 | 東海道 相模 |
| アクセス | 小田急小田原線秦野 徒歩19分 |
| 地図 | |
|
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。 | |
| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 室町時代 |
| 築城者 | 扇谷上杉氏 |
| 歴代城主 | 扇谷上杉氏 |
| 代表紋 |
未登録
|
| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 郭・土塁 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 弘法山は標高235mで秦野市街を見下ろす低山である。秦野の城郭によるとこの山の尾根の各所に築城遺構が見られ、東波多野城という仮称を与えている。 文献史料もなければ土地の伝承もないが、室町時代の終わり頃に扇谷上杉氏が構えた山城と推察される。 文明10年(1478)に長尾景春が起こした乱は関東一円に飛び火したが、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は東奔西走し関東の火消しに務めた。 このとき平塚城に拠った大森憲頼を箱根へ駆逐した後、弘法山に山城が築かれたと可能性があるという。 元々は寺院があったと思われるので、この当時によく見られる山岳寺院を流用した山城だったのだろう。 |
| お城情報 | 弘法山を城跡とする説があることを知ったのは、秦野市教育委員会が発行した秦野の城郭が初見だったと思う。秦野市へ訪れたときに買い求めようとしたが既に売り切れていた。仕方なく図書館でコピーをしたが、実際に訪れるまでには10年以上の歳月が流れた。 秦野駅から20分ほどで弘法山への登山道入口に着いた。ここから15分ほど登ると浅間山、舗装された道路を横切りさらに登ると権現山へと至る。権現山の山頂は広々としていて気持ちの良い場所だったのでここで朝食を取った。展望台から眺める富士山がとても美しく、反対側に目をやると遠くに太平洋が広がり三浦半島がはっきりとわかった。 権現山へ至る道筋に数段の平場が形成されていたが、城郭遺構なのか、ハイキングコースを構築する作業に使われた踊り場なのか判断しかねた。権現山から弘法山へ向かう途中には馬場道と呼ばれる広々とした尾根道がある。道を造ったときに余った土が盛られたのか、まるで土塁のような感じに見えた。道路と山道が分岐する場所に弘法山への入口がある。登り詰めると釈迦堂がある山頂に着くが、ここもやはり段曲輪のような地形が見られた。一見すると虎口のような地形があったり、土塁の痕跡のような地形が見られたりするが、はっきりそれとわかる城郭遺構はなく、山城歩きと捉えるとやや物足りなさを感じたが、眺望の素晴らしさと尾根歩きの快適さもあって清々しい気持ちにさせられた。呼称は東波多野城と仮称されているが、波多野氏とは何ら関係がないので、山名から弘法山城と呼ぶのが適当かと思う。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/09/19 12:35:22 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 2.0|
登城日:
2025年10月12日 13:25
(マリリさん) おすすめ度: ★★ 城趾として、これと言った遺構は分からない。 登山者が絶えないほどの人気の山と言うことは分かる。 | |||
|
登城日:
2025年10月12日 13:21
(影武者さん) おすすめ度: ★★ お城に関する説明板は無い。小堂、鐘堂と弘法山の歴史の説明板がある。登る途中に段差が複数あり、畑跡地か曲輪跡なのかは分からない。 登山客で賑わっていて、駐車場がどこもいっぱい。 |








未登録















日別アクセスランキング






新着・更新情報









お城ニュース

