基本情報
住所 | 岡山県玉野市八浜 |
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五畿八道 令制国 | |
アクセス | JR宇野線八浜 徒歩34分 |
地図 | |
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電話番号 | |
FAX番号 | |
公式サイトURL | |
営業時間 | |
築城年 | 天正9年 |
築城者 | 宇喜多基家 |
歴代城主 | |
代表紋 | 未登録 |
天守の種類 | |
天守階数 | |
天守形式 | |
曲輪構成 | |
縄張形態 | |
廃城年 | |
指定文化財 | |
歴史・沿革 | 天正八年(1580)、備前の宇喜多直家は秀吉の傘下となり、毛利氏による備前南部の児島への攻撃に備えるために、常山城には富川平右衛門、麦飯山城には弟・浮田忠家に守らせました。 一方、毛利氏側の小早川隆景は、備中猿掛城主のち矢掛茶臼山城主である毛利元就の四男・穂田元清を児島に進撃させました。 間もなく麦飯山城は毛利方の手に落ち、宇喜多直家は忠家の子・基家に八浜城を築かせ応戦体制を整えました。 天正九年(1581)、麦飯山城のあたりで足軽同士の小競り合いが起こり、それから本格的な合戦が始まりました。 宇喜多基家は鉄砲の弾にあたって落馬し、そこへ銃弾を浴び討死するのです。 これで一時は宇喜多勢の総崩れと思われたのですが、能勢又五郎・国富源右衛門・宍甘太郎兵衛・馬場重介・岸本惣次郎・小森三郎右衛門・栗井三郎兵衛という八浜の七本槍と称された七人の活躍で、形勢は変わり毛利勢は退いていくのです。 その後、秀吉の備中高松城の水攻めの時、毛利方と和議を結んだ後に廃城となりました。 『参考文献を参照』 |
お城情報 | 曲輪、堀切、横堀、畝状竪堀 |
更新情報 | 【
最終
更新者】キャッスル 【 最終 更新日時】2024/08/20 22:40:42 |
みんなの登城記録
みんなのおすすめ度 3.0
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登城日:
1992年8月21日 22:00
(キャッスルさん) おすすめ度: ★★★ |