基本情報
| 住所 | 埼玉県比企郡吉見町大串 |
|---|---|
| 五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス | |
| 地図 | |
|
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| 電話番号 | |
| FAX番号 | |
| 公式サイトURL | |
| 営業時間 | |
| 築城年 | 平安時代末期 |
| 築城者 | 大串重親 |
| 歴代城主 | 大串重親 |
| 代表紋 |
未登録
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| 天守の種類 | |
| 天守階数 | |
| 天守形式 | |
| 曲輪構成 | 空堀 |
| 縄張形態 | |
| 廃城年 | |
| 指定文化財 | |
| 歴史・沿革 | 大串氏は武蔵七党のひとつ横山党の出身という。 横山党の本拠地は東京都八王子市にあるが、埼玉県や山梨県など広範囲に散らばった一族である。中には怪しいと思う点もあるが、それを覆すような史料もないため通説に従う。 重親の烏帽子親は武蔵武士を体現化したような畠山重忠である。名の一字も元服のときに重忠から与えられたのだろう。 寿永3年(1184)の宇治川の戦いで重親は渡河の際に馬を流された。川の流れと大鎧の重さで溺れかけたところを重忠が重親の襟元を掴んで対岸へ放り投げた。岸辺には多数の平氏の前に投げ出された重親は大音声で「我こそが徒立ちの先陣であるぞ」と叫んだ。 それを見て敵味方ともにどっと笑ったという場面が描かれている。勇猛さと諧謔を兼ね備えた坂東武者ぶりが伝わる名場面だと思う。 元久2年(1205)の二俣川の戦いで重親は北条氏に謀叛の嫌疑をかけられた重忠と敵として戦うことになるが、少年の頃からの知り合いである重忠を討つ気になれず、撤収したという。 |
| お城情報 | 初夏というよりも盛夏と思えるほど暑い日だった。 この日はお互いのWebサイトの相互リンクで知り合った人たちとはじめてオフ会を開いた日である。 仲間がいるというのは本当に良いもので一人では行けないような城館も訪ねることができる。お互いの知識や資料を交換したりもできて得られるものは大きい。 埼玉県比企郡を中心とした城館探訪であったが、源範頼や比企氏など鎌倉時代までの城館が中心となった。 その中で訪ねたのが宇治川の先陣争いで徒歩での一番乗りと名乗りを上げた大串次郎重親の居館跡である。 重親の居館跡は市野川のほとりにあり竹藪に覆われていた。 居館跡が本当にここかは確定していないが近くにある金蔵院には重親のものと伝わる宝篋印塔がある。 板碑なども残されており武士の居館があったことは想像に難くない。 大串の地名が残ることからここが重親の居館跡として問題ないと思う。館跡の西に架かる橋の名前は徒歩橋で偶然か意図的なのかはわからないが面白い。 |
| 更新情報 | 【
最終
更新者】匿名城主 【 最終 更新日時】2025/10/07 23:42:48 |





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